南直哉『なぜこんなに生きにくいのか』を読んで |
夏に恐山の宿坊に泊まった際、部屋のテーブルに置かれていたのが、南直哉(みなみ・じきさい)氏の『語る禅僧』だった。
【青森旅行】恐山の宿坊に泊まる(1日目)
ケータイの電波も入らず、テレビもない宿坊で、夜中遅くまでこの禅僧の本を読むと、「無常」「縁起」「業」という、これまで遠い存在だった言葉がずいぶんと身近に感じられた。
旅から帰って、早速この『語る禅僧』の文庫本を注文。また、南直哉氏について改めて調べると、恐山菩提寺の院代だった。なるほど、そうだったのか。
『語る禅僧』は、後編のアメリカのZen Templeでの体験記がとても面白い。オーガニックなトマトソースにそばをかけた精進料理「そば・ナポリタン」にびっくりしたことや、ヒッピームーブメントとアメリカにおける仏教の受容の考察等、それまで永平寺原理主義者を自認していた氏が、「この世に絶対的に正しい立場などありえない」ということを体験的確信にいたる過程が、まじめに、また可笑しく書かれていた。
で、続けて氏の著書『なぜこんなに生きにくいのか』『恐山』を注文した。
『なぜこんなに生きにくいのか』、自分の常識にガツンと金槌で打ち砕かれるエッセイ、評論だった。久しぶりに出色の書物に出会った思いだ。
仏教の見地から、世の常識を論理の刀で切って、中身を開けてみせる。
人間の苦しさや寂しさの根本にあるのは、自分であること、生きていることが「課せられた」ものであるという厳然たる事実です。・・私たちはもともと覚悟をもって生を引き受けたわけではありません、”仕方なく”この世に生まれ、そこで一方的に名前を与えられ、社会的な自己を課せられるわけです。
「仕方なくこの世に生まれ、一方的に名前を与えられ、社会的な自己を課せられた。だから、苦しいのだ」と。確かにその通りだ。この言葉で、私はちょっと身体が軽くなった。
上っ面なポジティブシンキングの自己啓発本に違和感を覚える人は、ぜひおすすめします。「生きる」という命題への切り込み方が鋭く、深く、強い本。
なお、南直哉氏はブログも更新されている。
恐山あれこれ日記
なぜこんなに生きにくいのか (新潮文庫)
著者/南直哉
発行/新潮社
人として存在するかぎり、苦しみはけっしてなくなることはない。ならば、この生きがたい人生をいかに生きるか、それが人間のテーマではないだろうか。宗教はなんらかの真理を体得するものでなく、少しでも上手に生き抜くための「テクニック」。自らの生きがたさから仏門に入った禅僧が提案する、究極の処生術とは。困難なときこそ、具体的な思考で乗り切るための“私流”仏教のススメ。(Amazonより)