子供の頃、自転車で走った東大阪の町工場街を歩く |

実家がある東大阪市は町工場の町。子供の頃、同級生の多くの父親は、自宅で小さな工場を営んでいた。
プレスの響き、切断機の火花、溶接の焼けるにおい、トラックのバックする音‥‥私と同じ年、1967年に生まれた「東大阪」という地名は、今なお私の五感をかすかに刺激する。
大晦日の今日は、1kmほど離れた場所にある家のお墓を、一人で掃除しに出かけた。そのついでに、昔、チャリンコで走り回った小さな路地のいくつかを、うねうねと歩いた。
かつて町工場があった場所の多くは、建売住宅や駐車場に変わっていたが、それでも想像以上に昭和の残照があった。
国鉄のコンテナが倉庫代わりに使われていたり、ブルドーザーのある建設資材置き場があったりした。私は、学校で立ち入りを禁止された、建設資材置き場の土管で遊ぶのが大好きだった。

大晦日でシャッターは閉まってはいたが、町工場の長屋(?)もまだまだ残っていた。平日は、今でもあのプレスの響き、切断機の火花、溶接の焼けるにおい、トラックのバックする音はあるのだろうか。

小学生の同級生が住んでいた「文化住宅」も残っていた。メゾネットがV字型に向かい合い、真ん中に三角形の共有スペースがある。子供心に、「なんかモダンな建物やな」と思っていたが、今、見てもなかなか斬新な建築スタイルだと思う。

なお、「文化住宅」とは関西特有の集合住宅の呼称で、Wikipediaでは下のように解説している。
近畿地方で主に1950~60年代の高度経済成長期に建設された集合住宅の呼称。瓦葺きの木造モルタル2階建てで、1-2階の繋がったメゾネット、あるいは各階に長屋状に住戸が並んだ風呂なしアパートを指す。「文化」(「ん」にアクセント)と略称されることもある。この種の住宅が「文化住宅」と呼ばれたのは、それまでの長屋やアパートなど集合住宅の多くが便所や台所を共用としていたのに対し、これらの設備を各住戸に独立して配置したことから、従来の集合住宅よりも「文化的」という理由である。
あと、想像通りだったことは、子どもはあまり見かけなかったこと。私が小学生の頃は、工場前の路地、資材置き場、文化住宅のスペース、どんなに狭い空間でも気にせず、男の子が野球をする姿が見られたものだった。
同級生の多くも大人になって、私のように両親を残し、この町を出て行ったからだろうか。

~宇宙を呼びよせた町工場のおっちゃんの物語
著者/青木豊彦
発行/近代セールス社
東大阪の町工場が集まって製作し、今年1月、見事打ち上げに成功した人工衛星「まいど1号」。その発起人であり、生みの親とも言える青木豊彦・株式会社アオキ社長が、プロジェクトにかけた思いやその顛末、モノづくりへの情熱、航空宇宙産業を大阪の地場産業にすることを目指し、いま新たにスタートさせた取組みなどについて熱く語ります。 (Amazonより)