3年前の今日をTwitterで振り返る |
震災当日は午後から大阪出張だった。午前中の会議を終えて品川駅へ。東海道新幹線、のぞみ号の中で震災の時間を迎えた。ただ、走っている電車の中では意外に揺れは感じなかった。iPhoneで音楽を聴いていたことも、揺れを感じなかった理由かもしれない。突然、スーッとのぞみ号が速度を落として、滋賀県に入ったあたりで停車した。
地震で新幹線が停まっております@関ヶ原あたり イマココ L:滋賀県長浜市布勢町350
— 竹本 朝直 (@asanao_editor) 2011, 3月 11
「地震のため停車します」という車掌のアナウンスがあったが、その時は通常のよくある地震と勝手に思い込んでいた。しばらくして、関西支社長からケータイに「大丈夫?」と深刻な声で電話がかかってきた。結局、震災の映像を見たのは、新大阪駅に到着してからだった。
16時から関西支社で予定していた会議があったけれど、テレビに映る千葉県の石油コンビナートの火災のせいか、心ここにあらずという雰囲気だった。業務を終えて、軽くスタッフと食事をして、その日は実家に泊まった。
翌日午後、東京へ出発。前日、東京では交通がマヒしたことはテレビで知っていたので、川越まで帰れるかどうかが不安だった。
さて、東京に帰ります@東大阪。品川までは新幹線だから大丈夫でしょう。品川から先は、まだ混雑しているのかな。
— 竹本 朝直 (@asanao_editor) 2011, 3月 12
ほぼ定刻通りに品川駅到着。新幹線ホームから山手線への通路が、妙に薄暗くて人が少なかったことを覚えている。今でも、品川駅で降りると、この翌日の夜を思い出す。戦場に帰るような気分。映画『存在の耐えられない軽さ』で、スイスからチェコに主人公が戻るシーンを思い出した。
大阪から東京に帰ると空気が違う。阪神大震災の際、倒壊多数の西宮北口から阪急電車で梅田に帰ったら、バーゲンセールをやっていて空気の落差に驚いたことを思い出した。
— 竹本 朝直 (@asanao_editor) 2011, 3月 12
山手線で大崎駅へ。埼京線は確か運転本数が減っていたが、21時前には自宅に帰ることができた。
帰宅しました。昨日午後からだったのに、ずいぶんと長い大阪出張だった気がします。
— 竹本 朝直 (@asanao_editor) 2011, 3月 12
翌朝は日曜だったけど、午後、会社に出社。幹部で当面やること、やれることをリストアップ。その日のうちにスタッフにメール送信。
さてと、出社します。明日の朝からみんなでやれること、やらなければならないこと、あらかじめリストアップしておかなきゃ。
— 竹本 朝直 (@asanao_editor) 2011, 3月 13
取り急ぎ、部長クラス間で当面のリスク把握と、明日朝からやる作業をメールで指示完了。そろそろ帰宅しよっと。
— 竹本 朝直 (@asanao_editor) 2011, 3月 13
その日は照明を点けずに、自然光で仕事した。
ところが、翌日は川越から東武東上線もJR川越線も運休。大宮から先、和光市から先も鉄道の運行状況が見えなかったので、自宅待機。
川越から都心への各線が運休のため、とりあえず自宅で待機いたします。
— 竹本 朝直 (@asanao_editor) 2011, 3月 13
同じような被害映像を延々と流し続ける放送局にうんざりしたようだ。
同じような内容の報道番組を放送するのなら、NHK1局、民放1局程度でいい気がします。あるいは、計画停電のようにローテーションにするとか。
— 竹本 朝直 (@asanao_editor) 2011, 3月 14
原発事故の影響で、異常にハイテンションでエキセントリックな言葉がインターネット上にあふれ、頭がいっぱいになったことを覚えている。すさまじい数のつぶやきがリツイートされて流れていた。結局、震災4日後、数多くの友人・知人のフォローを外すことになった。
地震発生以降、タイムラインの量が半端なく、最近、仕事で直接お付き合いのない方のフォローを徐々に外させてもらっています。私の場合、ツイッターは業務ツールの性格が大きいので、どうかご容赦くださいませ。
— 竹本 朝直 (@asanao_editor) 2011, 3月 14
とにかく不確かな情報の洪水に辟易した。
ただ、「現場を知る専門家の言葉は重みがあるな」と感心したのが下のブログだった。
計画停電が出来るのは最高級の配電技術があるということ
非常時、有益な何かを自分は提供できるだろうか? 即答できない。来年のこの日には、即答できる自分になりたいと思う。